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「なぜ、上流の水の流れは透明なのか」



―河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える―

   第5章「コンクリート護岸」(5/6)-第4節

第4節堤防の水流側の新たな「コンクリート護岸」

堤防の水流側の新たな「コンクリート護岸」

 石や岩が多く河川敷が広い中流域では、堤防の河川側に堤防から離れて低い位置にコンクリート護岸を設置することがあります。
 この種類の工事は、ここ数十年ほどの間に施されたものがほとんどではないでしょうか。高い位置にある堤防と低い位置のコンクリート護岸の間は整地されて、運動広場や公園として整備され多くの市民に利用されています。そのこと自体は良いことだと考えられますが、これを「治水」の観点で見ると間違いであると考えられます。
 第一に、それらの中流域にある堤防水流側の低い位置のコンクリート護岸は、中流域に広がる河川敷の意味を理解していないと言えます。
 広い河川敷は増水時の水流が流れるための場所であり、水流が蛇行するための場所であり、長い期間を掛けて土砂が少しずつ流下して行くための場所です。その場所が埋め立てられれば、河川全体での水流と土砂の流下能力が減少し、増水時の水流が堤防を乗り越え或いは破壊する可能性が大きくなります。
 各地の中流域の堤防は、その多くが、大昔から存在していた自然堤防を礎にして建設されている事が多いようです。その場所に昔の自然堤防があったと言う事は、かつてその場所にまで及ぶ洪水があったと言う事であり、昔の自然堤防の高さにまで及ぶ洪水があったと言うことです。
  もちろん、大昔以降、長い年月を掛けて多くの人々がそれらの堤防を改築、改修して来たから現在の堤防が存続しているのです。
 ですから、堤防の水流側を埋め立てることは、堤防の本来の機能を損なうことです。過去において、自ら堤防の機能を損なわせる治水工事が施されたことは無いでしょう。
 たかだか数十年の水流と土砂の状況や変化を見ただけで、河川敷を埋めてしまう事は全くの間違いだと言えます。

 第二に、堤防の水流側の低い位置に新たにコンクリート護岸を設置することは、コンクリート護岸による不都合を強化することです。
 以前からあった堤防のコンクリート護岸の場合では、河川敷が広いので不都合が徐々に拡大していましたが、流れの幅を狭くして新たに設置したコンクリート護岸によって、不都合はより強化されました。水流側の新たなコンクリート護岸の場合では、増水の時だけでなく平水時の普通の流れも狭くなった場所を流れているのです。
 新たなコンクリート護岸に囲まれた水流の河川敷からは多くの石や岩が容易に流下するようになりました。「自然の敷石」も「自然の石組」もより以上に形成され難くなりました。それによって砂や砂利などの小さな土砂もより多く堆積し流下することが増えました。場合によっては、中流であるのに常に砂だけが流下している状況も発生しているかも知れません。もちろん、上流からは以前よりも大量の小さな土砂が流下して来ているのです。
 河川敷の幅が狭くなったので水流の蛇行の幅も狭くなりました。これらによって水流は、小規模な増水であっても急激に増水して急激に減水する傾向がより強くなっています。

 これら二つの事柄を治水担当者はどのように判断しているのでしょうか。何故、中流の堤防の水流側に新たにコンクリート護岸を設置し、さらに延長させているのでしょう。

「安倍川」の場合
 著者の地元の「安倍川」でも堤防の水流側に新たなコンクリート護岸を見ることが出来ます。「安倍川」では、その工事は既に河口近くにまで延長されています。
 「安倍川」は、静岡市を北から南へと流れ、長さ約50Km、流域面積約567平方Kmの河川で、標高約2000mの頂きをその北端の源としています。多くの支流がある流域のほとんどは山岳地域で、平野部を流れる区間は海岸から約7Kmほどの距離しかありません。
 また、その源流部には日本三大崩れの一つと言われる「大谷崩れ」(オオヤクズレ)があるだけでなく、流域全体が「糸魚川−静岡構造線」(フォッサ・マグナ)に近接して、崩れ易い土砂で成り立ち、流下する土砂が多く、地図的意味での中流から下流まで、水量に比較して極めて広い河川敷を有しています。そして、全ての流域が本書で説明している「上流、中流」に該当しています。

 「安倍川」の場合では、水流の東側が市街地区域になる付近から下流に向かう場所で、堤防の内側の広い河川敷を埋め立てその水流側にコンクリート護岸が建設されています。また、水流の西側でもそれらは建設されています。それらの場所の堤防の多くは元々江戸時代初期に建設されたもので、それらは現在まで改築、改修され続けて来たのです。
 「安倍川」では、現在までに幾度も水害があった中で、江戸時代の文政年間と約100年前の大正時代の二度に亘って規模の大きな洪水がありました。何れの洪水でも上流から市街地区域までの流れの東側の堤防の何箇所かが決壊、流失して、下流側の市街地に甚大な被害を与えました。
 もちろん、江戸時代や大正時代にはコンクリート護岸の技術は無かったのですから、コンクリート護岸があれば決壊しなかったのかも知れません。
 しかし、安倍川では、上流と支流の全てに数多くの砂防堰堤が建設され、上流にも中流にも川幅を狭めてコンクリート護岸が多く設置されています。また、流れ込む幾つかの支流の合流地点にあった広い河川敷も埋め立てられています。以前には霞提であった堤防も連続提に変わっています。それらは、すべて急激な増水をもたらすものです。
 ですから、大雨の時には急激な増水が押し寄せて来る可能性が昔よりもずっと大きくなっていると考えています。

 市街地付近で東西の堤防の水流側にコンクリート護岸を設置したことにより、さらに洪水の可能性が拡大しています。
 規模が大きな増水時には、堤防の水流側の運動広場や公園の区域にも水流が及ぶので、洪水が発生する可能性は無いと考えられているようですが、この考え方は間違っています。
 実際、堤防の水流側の運動広場や公園に水流が及ぶ機会は多くはありません。でも、あと少しでそれらの区域まで水量が上昇する増水は頻繁に発生しています。そして、それらの機会にも土砂は上流から流下して来ます。
 その時、上流側の広い河川敷を流れて来た水流が、コンクリート護岸によって急激に流れの幅を狭められた場所に至れば、水の流れが滞り土砂も多く堆積します。したがって、それらの場所の川床は自然に上昇します。

 現実に、水流側にコンクリート護岸を設置した場所の上流側区域の河床は年々上昇し続けています。河床の上昇は目で見て分かるほどで、それらの区域では、水流側のコンクリート護岸が隠れるほどに土砂堆積が進行した場所もあります。これらの幾つもの事情から、河川敷を流れる水流が網目状に分流する現象が、上流に向けて年々拡大して、今ではその状況が河口から14Km以上の区域にまで遡る事もあります。
  堤防の水流側に、本来の治水の機能を損なう工事を施した事は、歴史を顧みる事なく、現実を認識することもない間違えた行為であると考えています。それらのコンクリート護岸は出来るだけ早く撤去するべきだと考えています。  
 近年、各地の中流部で度々洪水が発生していますが、安倍川に限ってそのような事態が発生しない理由があるとは考えられません。

 「安倍川」の「瀬切れ」現象
 「安倍川」では冬になると、「瀬切れ」と言う現象が発生します。「瀬切れ」は流れの途中で水流が途絶え消失する現象です。太平洋側のこの地では冬季の降雨量が少なく、いずれの河川でもその季節の水量が減少することは普通に見られる現象です。ところが「安倍川」での「瀬切れ」現象は、昔からあったものでは無く、近年になって生じ、年々その区域を拡大させて来たものです。
 冬のあいだ、それらの区域では、網目状に流れる水流の所々で水が途切れて、水の全く無い区間が次第に広がって行きます。

 「瀬切れ」現象は、河口から約5Kmで出会う大きな支流「藁科川」(ワラシナガワ)の合流地付近から始まり、水流側のコンクリート護岸設置区間よりも上流の、河口から約14Kmの新東名高速橋近くにまで及ぶこともあり、年々その区間を延長して、その期間も長期化させています。
 静岡県を流れる大河川「富士川」「大井川」「天竜川」と比較すると、「安倍川」は小さな河川です。しかし、南アルプスの南部に広がる山岳地帯を水源とする事と、流域全体に占めるそれらの区域の広さを考えれば、「安倍川」の「瀬切れ」現象は極めて奇異な出来事であると言えます。
 著者が少年の頃はそのような現象は発生していませんでした。成人してからもその現象は知りませんでした。「瀬切れ」と言う言葉自体、この二十年ほどの間に知ったのだと思います。ですから「瀬切れ」現象は、正確ではないかもしれませんが、この二十年ほどの間に生じて来たもののようです。

 「安倍川」の「瀬切れ」現象は、上流と中流の間違えた河川工事が原因であると、著者は考えています。しかも、それらの工事は年々その施工個所を増やしています。上流の砂防堰堤のほとんどは、上流側に小さな土砂を堆積させ、下流側では大きな石や岩を流失させています。つまり、それらの流れでは自然の流れが持つ治水的機能を失い、減水期の遊水池的機能も失っています。
 また、中流域のほとんどの場所には「コンクリート護岸」が設置され、その設置は上流域に拡大し続けています。コンクリート護岸の流域でも自然の流れが持つ治水的機能を失い、減水期の遊水池的機能も失っています。
 ですから、「安倍川」の地図的意味での中流域、下流域には大量の小さな土砂が堆積して、水流が分流し網目状の流れの区域も拡大し続け、河床も上昇しています。
 これらの結果が冬季の「瀬切れ」現象として現われているのだと考えています。

 「安倍川」では、河口から15Kmほど上流で大量の地下水を水道用に取水していますから、それが「瀬切れ」の原因であるとの説明がされることもあります。でも、それだけが原因であるとは考え難いのです。
 「瀬切れ」は、年々その区域と期間を拡大しています。さらに、本流だけでなく支流でも発生しています。仮に、水道用の取水が原因だと考えると、毎年「瀬切れ」の区域と期間が拡大していることの説明が出来ません。
 ここ十年ほどの間、静岡市の人口はほとんど増えていません。水道用の取水量が増大しているとは考え難いのです。逆に、大量の地下水を使用する製紙工場が撤退した例もあります。地下水の利用量が増加したとの話を聞くことはありません。これらの事情のどこにも「瀬切れ」現象が年ごとに酷くなっている事の理由を見い出せません。
  対して「砂防堰堤」と「コンクリート護岸」の場合では、年数が経過するほどにその影響が深刻化するのです。「安倍川」の「瀬切れ」現象の原因は「砂防堰堤」と「コンクリート護岸」にあると考えるほかはありません。

 「安倍川」で、堤防の水流側をさらにコンクリート護岸で囲んだ区域の状況は、昔とはすっかり異なった様相を見せています。
 40〜50年ほど前、旧国道1号線の安倍川橋の周辺の河川敷には大きな石や岩が多くあり一抱え近い岩を見る事もあったそうです。現在その周囲で見かける石や岩は、最も大きなものでも人の頭程度のものでしかなく、数もとても少ないのです。ほとんどの土砂は砂や小石やそれより少し大きな石ばかりです。
 また、河川敷はほとんど平坦で、平水時であっても水流が網目状に流れる事が多く、昔はかくれんぼが出来る程だったと言われるような凹凸は全くありません。これらの状況は、コンクリート護岸による影響が明瞭に現われている証ではないでしょうか。その有様は、川幅が狭い流れの両岸にコンクリート護岸を建設した後の状況と同じです。

「安倍川」の濁りの問題  
 河川としての「安倍川」が荒廃している状況は、「瀬切れ」以外の現象にも現われています。それは、降雨による増水時に濁りが発生し易く解消し難いと言う問題です。言い換えると「自然の敷石」と「自然の石組」が形成され難い、或いは形成されていないと言う問題です。  

 この問題は、釣り人にとって極めて重大な問題です。「安倍川」では、多くの釣り人が「アユ」を釣る事を目的として釣魚券を購入しています。
 現在では、昔から流れている自然の河川であっても、河川に生息する魚類を自由気ままに捕獲してはいけない事になっています。特に、漁業協同組合が設置されている河川では、多くの人が公平に魚釣りを楽しむことが出来るように、「アユ」やその他の魚類を過剰に捕獲しないように、漁期と漁法と漁の区域を詳細で厳格に定めています。もちろん、釣りをするときには入漁料を支払わなければなりません。
 そして、「安倍川」の場合では、釣りの当日にあわてて入漁券を買わなくても済むように、地元の釣り人の多くが1年間通して釣りが出来る入漁料を支払っています。年間入漁料は決して安いとは言えない金額です。  
 現在の「安倍川」のアユ釣りの場合でいえば、漁期は6月から11月までの夏と秋の間に限られていますが、実際には、釣り人の多くが秋が深まり産卵が始まる前の10月初旬頃までをアユ釣りの漁期と考えています。
 戸外の遊びである河川の魚釣りでは、その時々の天候と水流の状況によってそれが出来るかどうかが決まります。
 「アユの友釣り」の場合ではその傾向は顕著です。水流が茶色に濁っていては「友釣り」は出来ません。白い濁りが薄くなる頃になれば「餌釣り」が可能になりますが、その釣り方が許可されている区域と期間は限られています。白い濁りが透明に近くなれば、石や岩に藻類が生育し始めるので「友釣り」も可能になりますが、藻類の成長は季節や天候や場所によって異なっています。日差しの強い盛夏であれば藻類の成長は速いのですが、初夏や秋口には藻類も早くは成長しません。  
 つまり、「アユ釣り」の場合では、その時々の天気だけでなく河川の濁り具合によっても、釣りが出来るかできないか、或いは釣果が多いか否かが決定づけられています。  

 そして、残念なことに「安倍川」は、昔に比べてその流れに濁りが生じている期間が極めて長くなっています。その傾向は、安倍川流域の全てで生じているのですが、水流側に新たなコンクリート護岸を設置した場所の上流側では特に甚だしいのです。
 僅かな降雨でも濁りが発生するだけでなく、濁りが解消するまで何日も掛かります。また、茶色の濁りがようやく白い濁りになったとしても、少しの雨があれば濁りは再び茶色に戻ってしまいます。安倍川の濁りは年間を通じて頻繁に発生し、その期間も以前よりずっと長くなっています。  

 アユ釣りが解禁されてしばらくすれば梅雨が始まります。梅雨が明けて盛夏のアユ釣りが出来るようになっても、台風が来れば何日も釣りが出来ない日々が続きます。秋になれば、長雨が続く年も多いのです。ほとんどの釣り人は仕事をもっていますから、安倍川の様子が良いからと言っても何時でも釣りに出掛けられるとは限りません。

  ですから、せっかく年間の入漁料を支払っていても、アユ釣りが出来る日数は限られています。安倍川でアユ釣りが出来る日数は、私が少年の頃や青年の頃より確実に減っています。入漁券を購入する人は年々減少している事でしょう。また、入漁券を買わずに密漁をする人も増えている事でしょう。

江戸時代の文書から推測する「安倍川」の濁り  
 安倍川の濁りの発生を、前述した「大谷崩れ」のせいだとする説明がされることがあります。さらには、近年の幾多の河川工事によって「大谷崩れ」の影響が減少して、治水状況が改善しているとの説を唱える人もいます。でも、それらは現実や歴史を顧みる事のない大間違いでしかありません。  
 安倍川の最上流に「大谷崩れ」と呼ばれる大規模な土砂崩れが発生したのは、江戸時代中期の1700年台初頭の頃です。その区域の広さや各所に残された跡から考えて、土砂崩れと土石流は一度だけでなく何度も発生したことでしょう。また、多くの土砂が流下する特別規模が大きな増水も、幾度もあった事でしょう。  
 それらの影響が現在の安倍川にまで及んでいる事は間違がありません。でも、だからと言って、濁りが発生して簡単には解消しない現在の安倍川の状況を、「大谷崩れ」のせいにするのは間違いです。
WEB上に公開されている文章に次のような記述があります。

駿河安倍川の記録(2007/05/25追記)  
 嘉永七寅年(1854)7月「友釣り禁止上申書/白鳥文書」(静岡市);門屋村の名主惣右衛門らが安倍山中36ケ村を代表して「友釣り禁止」の触れを出すよう現静岡市の「紺屋町御役所」に再提出した上申書。  
 文書の要約は、「近年鮎の友釣りという漁法が流行し困っています。農業を打ち捨てて友釣りに興じている者や、それを見物する者など数多く、農業の妨げとなっています。若者の中には、これを職業とする者もあります。ぜひとも、もう一度、友釣り禁止のお触れを出してください。」 平成8年4月30日静岡新聞で「静岡人のアユ友釣り好き 昔も今も 江戸末期に禁止令」という見出しで白鳥家古文書が紹介された。
出典:「友釣り酔狂夢譚」「友釣りの話」1. 鮎友釣の起源とその技法1.友釣りの起源 著者:吉原孝利
URL:http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/tomozuri.html (2018年11月25日引用)

 引用した記述は「友釣り酔狂夢譚」と言うWEB上の記載の「釣りの起源」の一部です。
 これは吉原孝利氏による貴重な研究をWEB上に公開したものです。なお、吉原孝利氏は「鮎友釣りの歴史」とする書物を「鈴木康友」氏と共著で出版されています。

 この文章では、安倍川流域「門屋」(カドヤ)(河口から約15Km)の名主が、代官所に提出した文書を紹介しています。つまり、「大谷崩れ」の約150年後には、農業を打ち捨てて「鮎の友釣り」に興じる者や見物する者などが数多いので農業の妨げとなっている、と訴える名主が居たのです。  
 既に記述しているように、「友釣り」には水流があるだけでなく、透明で濁りが発生していない流れが必要です。このことから考えると、その当時の安倍川では、梅雨や台風や秋の長雨が生じる夏から秋へ掛けての季節であっても、多くの人を夢中にさせるほどに、友釣りが出来る期間が長くあったと言うことです。当時の釣り道具が現在よりもはるかに未発達で素朴なものであったことも考慮すれば、この事実は全くの驚きです。  
 以下は想像ですが、上述の区域では、夏と秋の季節を通して少なくとも通算して30日以上は友釣りが出来る日があったのではないでしょうか。その期間が合算して2〜3週間ほどでは、広い区域の多くの人が夢中になって、農業を打ち捨てる程の流行になることは考え難いのです。

 翻って現在の事を考えると、それらの区域で友釣りが出来るのは、江戸時代に比べてはるかに短い印象です。夏から秋への期間の日数の全てを合わせても15日を満たすかどうか疑問と言えるほどではないでしょうか。
 もちろん、年ごとにその日数は異なっていますが、江戸時代より多くの日数があるとは決して言えません。古文書に記載された区域は、現在の安倍川全流域の中で最も濁りが発生し易く解消し難い区域で、それらの区域よりずっと上流まで両岸コンクリート護岸が設置されています。
 ここでの比較は具体的数値による根拠があるものでは無く、推測に過ぎません。しかし、「友釣り」が出来る日数が江戸時代よりも確実に少なくなっている事は間違いありません。そして、その日数は十年前より現在に至るほどさらに減少しています。
 さらに、平成30年から昨年令和5年までの間は、濁りの発生が甚だしく深刻化しています。多分、その期間中に流れが全くの透明になった日は、10日も無かった可能性があります。多分としているのは、その間、毎日それらの区域を観察していたわけではないからです。

 今から二〜三十年位前、或いはそれ以前の事だったと思います。安倍川は日本でも有数の清らかな流れであり、水中に酸素が多く溶け込んでいる事と濁りの少なさは特筆すべきものであると、役所の皆さんが盛んに喧伝していました。現在では、その清らかな流れは何処かへ行ってしまったのです。安倍川の治水事業が成果を上げているというのは、明らかな間違いです。
 静岡市内では、魚釣りに関心が無くても、多くの人が安倍川の現状を気にかけています。安倍川から透明な流れの日々が年ごとに減少し瀬切れ現象が毎年発生している事も、また、市街地区域の近くに幾つかあった「淵」の全てが砂や砂利で埋まり消失している事も知られているようです。それら全てについて多くの市民が憂いています。
  それらの残念な状況が年ごとに悪化している有様も、それらの区域とその上流部で「自然の敷石」や「自然の石組」が減少し続けているからです。
 現在の安倍川の河川状況が江戸時代よりも悪化しているのは、安倍川の上流や中流で、砂防堰堤を多く建設し、コンクリート護岸を長い距離に亘って建設し続け、それらの工事の機会に多くの石や岩を持ち出しているからです。
 その結果、安倍川の流域の全てから大きな石や岩が流失し消失して、淵や荒瀬が砂で埋まり減少して、砂や小石ばかりが増加し、濁りが頻繁に発生し、瀬切れ現象も毎年のように発生しています。これらは全てアユを始めとする多くの魚類や生物を安倍川から排除するものです。そして、安倍川の清らかな流れを誇りとしてきた多くの市民の思いを裏切るものです。
 この節では、著者の地元の「安倍川」の状況を取り上げ詳しく説明しましたが、私が考察と論述の対象としているのは、日本国内全ての河川の上流や中流です。「安倍川」の事ばかり説明したのは、私にとって観察が容易であり同時に過去と現在の状況もよく承知しているからに過ぎません。 また、「安倍川」では日本中の他の河川よりも大量の土砂が流下し堆積するのが普通ですから、上流や中流で生じている様々な事柄を分かり易く説明するのに適しているからでもあるのです。
 安倍川で生じている幾つかの事柄は、既に日本中の河川で生じている或いは近い将来に必ず発生する事柄です。現在それらが生じていない河川であっても、現在の河川工事方法を継続させ、また、改善しないままに放置すれば、明日にも或いは来年にでも間違いなく発生する事柄です。そして、安倍川とは異なる形での困難が既に発生している河川も多くあります。
 ですから、読者の皆さんには安倍川の事を他人事と思うことなく、ご自身の地元の河川の現在のそして近い未来の問題であると考えて頂けることを望んでいます。

                  

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