「なぜ、上流の水の流れは透明なのか」
―河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える―
第6章 貯水式ダムの問題(1/4) -第1節
2024/05/25
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一部訂正
第1節 土石流とダムの放流
土石流と渓流の形成
「淵」が何故に出来るのか考えるようになり、各地の渓流や清流を観察し思索を重ねた年月の途中で、渓流の様相がどのようにして形成されるかを理解出来なければ、「淵」の形成も解明できないことに思い至りました。
その時に思いついたのは、土石流の跡を観察することでした。様々な大きさの土砂が混じり合って一挙に流れ下った土石流の跡を観察すれば、渓流の様々な様相がどのようにして形成されて行くのかを年月の経過と共に知る事が出来ると考えました。たまたま、過去に、土石流が発生して間もない谷間を見た記憶がありましたから、最初の土石流の跡の観察はその流れから始めました。
その谷間(早川支流 春木川 )を最初に訪れた時の、土石流の後も間もない光景は忘れることが出来ません。新たな釣り場を探して、たまたま立ち寄ったその谷間は、はるか上流に見える砂防堰堤から下流側にある砂防堰堤の上端までの間が、全て土砂で埋め尽くされていました。土石流は上流側の砂防堰堤よりもさらに上流側から発生していたと考えられました。
土、砂、石、岩など様々な土砂で埋まった河川敷には木々や小さな草も全く無く、埋め尽くされた土砂の脇から始まる斜面の多くは上方に向かってそのまま山腹になっているので、谷間の山腹の木々の緑と茶色に埋められた河川敷の様子は全く対照的でした。
上流側の堰堤からは確かに水流が流れ落ち、下流側の堰堤からも少量の水が流れ落ちていましたが、大量の土砂の上を流れる水流はありませんでした。
谷間を埋めた土砂の堆積は、上流に向かって少しずつ傾斜が強くなりながら一定の傾斜を示し、それに対して谷間の横断方向への傾斜はほぼ水平で、所々で石や岩が飛び出ていたり剥き出しになっていましたが、その多くは土をかぶったままでした。
後になって知った事ですが、その谷間は上流に大きな崩壊地があり、頻繁に土石流が発生することで関係者には良く知られていた谷間でした。
前述した目的を持って二度目にその谷を訪れたのは、多分10年くらい後の事になるのでしょう。谷間には透明な水流が戻っていました。そして、土石流の確かな跡を幾つも観察することが出来ました。
多くの石や岩が散乱して開けた谷底の中央には小さな水流があり、谷の両側は砂の斜面で、その上端が河川の横断方向に水平な土手状の段丘となって連なっていました。段丘の上面は、ほとんど砂と小石ばかりの様子で、青々とした低木に覆われ、同じ種類に見えるそれらの木々はその高さもほぼ同じ位でした。この横断方向に水平な段丘が、かつて土石流直後に見た堆積土砂の10年後の姿だと考えられました。
土石流の直後に水流は全くありませんでしたが、その後復活した水量も多くはありません。水流は谷間の中央でのみ流下して、多くの土砂を水流の周囲の石や岩と両岸の段丘にして残していたのです。
水流から段丘の上端までの高さは約6m位で、流れの多くの場所でほぼ同じでした。ですから、水流の流れの傾斜は段丘の流れ方向への傾斜とだいたい同じだったのです。
谷底からのほとんど砂ばかりの斜面はその傾斜もほぼ一定で、草木の生育はありません。その斜面の所々では、大小の石や岩がその部分や頭をむき出しにして、そこから転げ落ちたと思われる石や岩が谷間の底に散乱しています。砂の斜面や谷底に残された石や岩は、下流側ほどその大きさが大きくなる傾向がありました。
明るく開けた谷底の状況は全く渓流のありさまそのもので、散乱する幾つもの大小の岩には角が多く、周囲には砂や小砂利も多く残されていました。それら多くの石や岩のほぼ中央を、幾つも小さく屈曲し段差を生じたわずかな水流が、白い泡と波を立てて流れていました。あちらこちらで小さな草々も成長していました。でも、浅い流れの底はほとんど砂や砂利ばかりで、特別深くなった箇所もありませんでしたから、渓流魚の棲息は全く期待できませんでした。
この谷間の流れに淵は全くありませんでしたが、渓流がどのように形成されるかについて、私は多くの知識を得ることが出来ました。
段丘と土石流
上述した土手状の岸辺の高い場所は、規模が小さいながら、地理で学んだ河岸段丘と同じものだと考えられます。経験が多い渓流の釣り人なら、どこかの渓流で同様の光景を眺めていると思います。
林道から下って水流に至る途中に、幹の太さをほぼ同じくした同じ種類の木々の林があり、その地面が流れの横断方向に向かって水平になっている場所を見たことがあるでしょう。或いは、渓流を遡る途中で岸辺の横にそのような地形を見たり、流れのすぐ脇に草の生えた同様の地形を見ることもあります。
渓流では、これらの地形は特別珍しい地形ではありません。時には、その小さな地形が2段や3段に重なっていることもあります。
このような地形は、土石流の跡だと考えられます。或いは、土砂崩れの後で大量に流下した土砂が残したものかも知れません。或いは、特別規模が大きな増水の跡かもしれません。
つまり、土石流の時に比較的少ない水流で大量の土砂が流下した痕跡なのか、土砂崩れによって大量の土砂が流下した後で急激に水量が減少した痕跡なのか、或いは、特別規模が大きな増水の際に急激な水量の減少があった痕跡なのかも知れないのです。
いずれにしろ、これらの地形は、水流と共に大量の土砂が流下した後に、流下する水量が急激に減少した痕跡だと考えられます。それと、もう一つ重要な事ですが、これらの土砂堆積が残された後に、その上面を上回る水量の増水が発生することが無かった、或いは、岸辺に残った土砂堆積を破壊して流下させるほどの増水が無かったと言う事です。
では、それらの土砂の堆積からその発生原因を把握することが出来るでしょうか。結論を先に言えば、土砂の堆積だけを見てそれを見分ける事は困難です。
土石流では大小様々な大きさの土砂が一気に流れ下りますから、堆積した土砂もその状況を反映させたものになっています。でも、土石流であっても大きな石や岩が必ずある訳ではありません。土砂崩れの場合でも同じ事情でしょう。
特別規模が大きな増水の時でも水量が急激に減少すれば、水量が最も多かった時の土砂流下状況がそのまま岸辺に残されるはずです。
この後、著者は、残され堆積した段丘とその土砂の組成の問題について頭を悩ませる事になりました。
奇妙な段丘
上述した場所とは別の河川( 大井川支流 寸又川 )で、上述の場合と同様に形成されたと考えられる段丘を観察しました。
その河川は、大河川の大きな支流で山裾の間にある谷間は充分に広くて、その傾斜も先に記述した水流よりも穏やかでした。また、上流に幾つか貯水式ダムがあるので、著者が観察した場所での水の流れは、ダム下流の水流を維持するための河川維持用水と、付近の沢の水を集めただけの小さなものに過ぎませんでした。その河川には広々とした大きな屈曲地があり、その内側には、複数の段丘の重なりと見て取れる2m前後の段差が幾つか残されていました。そして、その屈曲地の岸壁に形成された「淵」はとても大きかったのですが、ほとんど砂で埋まっていました。
その屈曲地にある段丘はすべて、大きな石や岩から砂や土までが全く無秩序に堆積していることがその断面から判断できました。そして、同様の段丘は屈曲地の上流側の別の場所でも、下流側の別の場所でも見ることが出来ましたから、それらは確かに土石流が残したものと考えられたのです。
屈曲地内側の段丘の最上段は既に松の林になっていて、下草の生えた水平な地面の所々には土砂堆積が出来た当時のまま石や岩が残されていました。
小規模な二段目に続く三段目にも既に草が生え始め、その端には小さな「ブナ」の幼木も幾つかありました。四段目の植物の成長はこれから始まる様子でした。
これらの段丘が段を重ねたのは、後から発生した土石流や増水時の水位が、既にあった段丘面よりも高い位置にまで及ばなかった事を現しています。
そして、幾段かの段丘がある事は、何回かの土石流が発生する度ごとに、発生時の河床が確実に低下していたことを意味すると考えられます。
仮に、土石流が発生した時の河床の高さが、以前あった土石流の時と同じであったならば、新たに形成される段丘の高さは以前からあったそれと似かよった高さになる可能性が大きいのではないでしょうか。そうでないとしたら、土石流が発生するたびに土石流の規模が順次小さくなった事を現している事になります。
ですから、幾段かの段丘は、それぞれの土石流が発生する間に段丘の高さの分だけ河床が侵食されていた事を現していると考えられます。
大きな屈曲地よりも上流の岸辺でも、三段目と四段目の段丘と同じ時に出来たと考えられる段丘を確かめることが出来ました。それらの段丘は、水流からの高さと植物の生育具合が大きな屈曲地のそれと似通った状況だったからです。
でも、上流側で見つけたある段丘には大きな問題がありました。
広い屈曲地より約400m程上流の小さな屈曲地点には、驚くべき段丘がありました。その場所に残された段丘は二段で、最上段は水面から約5m弱で次の段はその半分ほどでした。最上段の上面には既に多く草が育っていて、その高さとそれらの植物の様子から言って、二段の段丘は、最初の大きな屈曲地の上から三段目と四段目に相当すると考えられたのです。
上段の段丘の斜面に見る土砂のほとんどは砂ばかりで、その斜面の下部には握りこぶしより大きい位の石や岩が多く散乱していましたが、その斜面の上半分は全て砂でした。それらの石や岩の全ては上段の段丘の斜面から落下してその場に堆積したのです。そして、ほとんど砂だけの斜面からは一抱え近い太さで3mほどの長さの大きな流木も横たえた姿を見せているのです。
次段の段丘も流木こそなかったものの、上部の段丘と似かよった形状を示していました。
その場所の段丘はその場所や植物の様子や高さから言って、間違いなく、最初の屈曲地で見た三段目と四段目の段丘と同じ時に形成されたものであると考えられたのですが、その段丘の土砂が砂ばかりが多い事が腑に落ちないのです。
その段丘の下部にある石や岩が砂の斜面から崩れ落ちた結果であることは、この章の最初に記述した場所の斜面の状況と同じです。
でも、この場所に至るまでに見つけた段丘の土砂堆積が大きな石や岩を含む様々な大きさの土砂であったのに、どうしてこの場所ではほとんど砂ばかりなのか、それが問題でした。さらに流木としては異例なほどに大きな流木も不思議でした。
同じときに形成された段丘であるならば、似通った土砂の組成であるはずです。この奇妙な段丘のすぐ下流側にある段丘での土砂の組成も、最初に観察した屈曲部の組成と似通って、大きな石や岩を始めとした様々な大きさの土砂で成り立っていました。土石流の上流側の石や岩の大きさが小さくなる傾向があるとしても、短い距離で突然その土砂のほとんどが砂ばかりになっている事は不可解でした。
奇妙な段丘が出来た訳
謎が解けたのは、その奇妙な段丘を見つけてから3年目の事でした。その場所にはそれまでにも幾度か訪れて状況を確かめていましたが、謎が解けることは無かったのです。でも、3年目のその年には新たな発見がありました。
その奇妙な段丘の僅か50〜60m位上流の対岸に崩壊斜面がありました。その土砂崩壊は、幅20〜30m位で高さも20〜30m位、斜面の下端は大小の角張った石や岩が堆積した岸辺になって直接水流に接し、斜面には幾つかの小さな木々と草々が成長し始めていました。ですから、あと何年かすれば草々や木々に覆われた斜面に戻る状況だと思われました。
この崩壊斜面は3年前にもありましたが、その時の崩壊面には草や木の生育は多くありませんでした。それでも、この程度の崩壊地は渓流では珍しいことでは有りませんから気に留めることも無かったのです。
その、崩壊斜面の前面の川底が多くの砂で覆われていました。それに、すぐ下流で、水流が突き当たり淵となるはずの川底も全く砂で覆われ浅くなっていたのです。それらの砂は崩壊斜面から落下して川底に堆積したものに違いありません。また、岸辺に見る土砂もほとんど砂や砂利ばかりでした。
この発見によって、ある考えに思い至りました。砂ばかりの段丘は、崩壊斜面の砂が流下して堆積した結果ではないのか。
つまり、砂ばかりの段丘を形成した土石流は、すぐ上流側の川底に堆積していた大量の砂を流下させて少し下流側に堆積させた。そして、大きな流木は、崩壊斜面から崩れ落ち川底に残されていた状態であったものが砂と共に流下して堆積した結果ではないのか。3年以上前にはより多くの砂が川底に堆積していたことが考えられるのです。
この考えでは、この章の冒頭で記述した土石流とは全く異なった形態の土石流があることになります。でも、この現象がこの場所だけでなく他の場所でも生じていなければ、この考え方は成り立たないのです。そこで、下流側の段丘を再度確かめてみました。
奇妙な段丘のすぐ下流側の段丘では、段丘の最上流部の最も大きな石や岩は一抱え近くありましたが、同じ段丘の100m位の下流では、そんなに大きな石や岩はなく、大きなものでも人の頭と同じ位の大きさでした。さらに下流側ではもっと小さな石や岩に変わっていました。
これらは、その段丘の最上流端の前の流れが浅い淵頭の状態であり、下流端が小石の多い淵尻の状態である事に対応していると考えられたのです。この段丘も既に何度も観察していたのに、重大な事柄に気付いていなかったのです。
さらに下って、最初に見た大きな屈曲地でも同様の現象を確かめる事が出来ました。それまでの著者が観察していたのは、大きな屈曲地に出来た淵の淵頭に残った土石流の跡だけでした。淵の状態の場所を下るほどに土砂の大きさは小さくなって、平坦な流れの淵尻では段丘の土砂は砂と小砂利と石ばかりでした。
念のために、さらに下った場所の段丘を観察してみましたが、そこでも同じ結果でした。
著者の最初の観察は全く不十分なものだったのです。恥ずかしく思うばかりです。でも、ほんの少しだけ言い訳もあります。この水流では、流れが透明である機会が少ないのです。訪れたほとんどの機会で白濁していて、白い濁りが強い時もあれば、透明に近い状態でありながら白い濁りが残っている事も多かったのです。
ですから、崩壊斜面の前の水底が砂ばかりであった事に気が付くのが遅れたのです。なお、水流が白濁している事が多い状況からは、砂の流下量が多い事だけでなく、この河川の河床が、堆積土砂の下の地表面に至るまで侵食されている可能性も考えられます。
この河川における土砂堆積の段丘は、この章の冒頭に記述した河川での段丘とは明らかにその成因が異なっています。冒頭での段丘は上流から大量の土砂が流下して来て、それが順次河川敷に堆積したものです。
それに対して、この水流での段丘は、流下する土石流が川底の土砂を撹拌して直ぐ下流側に堆積させ、下流に向かってその現象を継続させた結果だと考えられるのです。
これを例えてみると、前者ではブルトーザーが上流から下流に向かって大量の土砂を移動させ順次堆積させます。後者では、トラクターが上流から下流に向かって移動し、通過する場所の土砂を巻き揚げ撹拌して元あった場所より少し下流側に土砂を堆積させていきます。
でも、どうしてこのような現象が生じるのでしょう。次の課題はこの現象の原因を見つけだす事でした。
土石流と段丘とダムの放流
それらの場所の段丘が土石流の結果であることは明らかでした。それぞれの場所の土砂は撹拌されて全く不規則に堆積しているのです。また、その時の水位は堆積土砂の表面よりも上にあったはずですから、大量の水が流下していたことも間違いありません。そして、流下していた大量の水は急激に減少したのです。
急激に水量が減少したから、横断方向に水平な段丘が岸辺に残されたので、徐々に減水していたならば、岸辺は水流から続く穏やかな傾斜になっていたはずです。
このような土砂の堆積状況を、河川維持用水と小さな沢水を合わせた普段の水流が引き起こしている事は全く考えられません。上流にあるダムの放流が原因である事は間違いがありません。でも、どのような放流が上記の現象を生じさせるのでしょうか。
このことも、その解明に時間が掛かりました。ようやくにして得た結論は、ダムの放流が急激過ぎたから土石流が発生した、との考えです。
石や岩の多い上流や中流では、水の流れる速度が、流れの中のそれぞれの場所で異なっています。流れの中央で早く岸辺で遅いことは多くの人が知っている事ですが、流れの底と流れの表面でも水流の速度が異なります。
上流や中流の流れの底には石や岩が多くあり、そこを通過する水流は石や岩により行く手を阻まれて流れるので流下速度は早くありません。でも、それらの上部を流れる水流は妨げるものなく下流に流れて行きます。
ダムの放流は、ほとんどの場合でゲートの開閉によっています。ですから、ダムの放流の最初に流れて行く水量は少なく、ゲートが開くほどに水量も次第に増加していきます。
最初に流れて行く水流は、その水量が少ないままに石や岩の多い川底を流れますから、下流に向かう速度は遅いのです。放流水量は次第に増加して、底から離れて流れる水量が次第に増加します。底を離れて流れる水流は底を流れる水流よりも早く流れますから、やがて最初に流れ始めた水流に追いつきます。
追いつかれた水流の川底の部分の流れはいつまでたっても速くなりません。ですから、追いついた水流は川底を流れる水流の上部に積み重なるように流れ出します。あとから追いつく放流水の量は増加する一方です。放流水の全体は、次第に厚みを増し海岸の波のように高さを増して立ち上がり、下流に向かって崩れ落ちるようになります。
つまり、ダムの放水口では徐々の水量の増加であったものが、下流側に至って、急激な水量の増加、いわば鉄砲水状態になって河川を流下するのではないでしょうか。
放流水の先端で巻き込み崩れ落ちる波は川底の土砂を堀り起こし撹拌しますが、先頭の波に続く水流は水量が増加していても通常の水流に過ぎませんから、巻き上げられた土砂は流れに従い流下した後に堆積します。この付近では、冒頭の河川に比べて水流の傾斜はずっと少ないのです。
これらの過程は最大放流量に至るまで続き、巻き込み前方に崩れる波の高さも最大放流量に至るまで大きくなるのではないでしょうか。もちろん、放流水先端の波が大きいほど、土石流の規模も大きくなるでしょう。
この現象は、ダムから離れた下流側から発生することが多いと考えられます。
奇妙な段丘はこのような土石流によって形成されたと考えられます。つまり、ダムの放流水がその先端に水の厚みによる大きな波を生じさせ、その波が崩れ落ちて土砂を巻き込み土石流状態が発生したのです。
ここに記述した過程を実際に観察した事はありません。想像による描写に過ぎません。しかし最近は、WEB上に多くの動画が公開され、ここに記述した状況やそれに近い状況の動画も幾つかありますから、それらを参考にして頂きたく思います。
残された段丘とダムの放流
残されていた奇妙な段丘の謎を解く鍵はもう一つあります。
河川敷に、土石流による段丘が形成されるのには、増水だけでなく急激な減水も必要です。急激な減水がなければ、堆積した土砂も徐々にその場所から流下することが考えられますから、その場所に残るのは段丘ではなく中央に向かって次第に深くなる斜面であることになります。或いは段丘の土砂の全体が流下してしまうかも知れません。
実際、上記した幾つかの段丘が残されていたのは、屈曲地点の内側や、岸から流れに向かって何らかの障害物があり水流が妨げられていた場所に限られていました。
つまり、奇妙な段丘が残された水流では、土石流を生じさせるダムの急激な放流だけでなく、その放流量が急速に減少する状況もあったのです。その状況は、段丘が残された場所の上流約4Kmにあるダムの特別な状況から生じていたと考えられます。もちろん、土石流を生じさせたダムです。
上流にあるそのダムは、「寸又川ダム」と呼ばれる発電用ダムで、その貯水池は既に多くの土砂で埋まっています。本来、水面であるはずのダム上流側の貯水池は、多くが土砂で埋まっているので、実際の貯水量は多くはありません。したがって、ダムがその放流を始めればダムに貯められていた貯水量は早くに尽きてしまうのではないでしょうか。そして、貯水量が尽きたダムから放流されるのは、上流から流下して来る水量だけになってしまいます。或いは、放流の途中で急激に放流を中止した可能性もあるかもしれません。
つまり、その下流部で土石流を生じさせた大量の放流水は長続きする事なく減少したことが想像できるのです。奇妙な段丘を含む幾つもの段丘は全てこのような状況で形成されたと考えています。
このような状況は、このダムに限っての特別な状態があったことによると考えられます。「寸又川ダム」の実際の貯水水量が少なかったので、土石流状態の土砂が河岸に残されたのではないでしょうか。
中部山岳地帯に建設されたダムの貯水池は、土砂が堆積し易い事が知られています。糸魚川静岡構造線の西側に当たる大井川水系の「寸又川ダム」も同様で、このダムのさらに上流にある「大間ダム」と「千頭ダム」、二つの発電用ダムもその貯水池の多くが土砂で埋まっています。
貯水池が土砂で埋まる事が少ない普通のダムでは、予定した放流量(秒あたりの水量)を長時間継続して放流している事でしょう。そのようなダムでは放流の初期に土石流が発生したとしてもその痕跡が残る事はありません。放流水の先端で発生した土石流状態は、引き続き流下する大量の水がその痕跡を消失させてしまいます。
これらを考慮すれば、ダムの放流が土石流状態を引き起こしている状況は日本中のダムで共通して発生している可能性があると考えています。
ところで、上述した人工的な要因による土石流の発生について、似通った現象の発生状況がWEB上に動画として掲載されています。その現象は、川床に階段状の段差が長く連続して設置された、3面コンクリートの細流で発生しています。その土石流状の流下では土砂は無く水流のみの現象ですが、その成因についての解説は本書での考え方と共通しています。動画は「「段波」はどこからやって来るのか?」の題名で掲載されています。参考にして頂けると思います。
この第6章、第1節、に記載した内容の実際については、WEB上で詳しく記述していますので、必要でしたらそちらもご参照下さい。
「第11章 土石流の跡を考える」
(https://keiryuu.sakura.ne.jp/Keiryuu01/keiryuu11.html)