>第12章 上面が水平な土砂堆積と、海岸の養浜
2021年6月22日掲載 06/29一部加筆
はじめに河川の横断方向に水平な土砂堆積その1
上流や中流の河川敷には大量に堆積している土砂がありますが、それらの中でも、その上面が河川の横断方向に向かってほぼ水平に堆積した土砂の様相は特徴的です。既に第11章やその他の記述で説明している通り、それらは、土石流や規模の大きな増水の時に水流と共に上流側から流下して来たものであり、
それらの土砂がその場に至った後に急速に水量が減少したことによって、取り残された土砂であると考えられます。
上面が河川の横断方向に向かってほぼ水平である事は、それらの土砂が移動していた時には、堆積した土砂よりも高い位置にまで水流があった事と、 それらの場所にまで広がった水流があった事を示しています。水流と共に移動する土砂が,
水流が無い場所や水流よりも高い位置に堆積する事はあり得ないのですから。
それらの土砂の組成はその時に流下していた土砂の様相をそのまま現していると考えられ、各所に堆積した土砂の組成も、時々の土石流や増水の様相によってそれぞれに異なっています。それらの土砂堆積には土砂の堆積量を示している厚み或いは高さがあり、それらは土砂流下時の土砂量を示しています。
横断方向に水平な土砂堆積は上流部で多く見るのですが、場所によっては思いがけないほど水面を離れた高い位置にある事があります。それは、土砂堆積の形成時の水流の高さを現しているのですが、その時の増水以降に川床が著しく低下した事による場合が多いと考えています。その時の流下水量がとんでも無く多かった事を示しているとは限らないと考えているのです。
これらの事は、第11章で幾つかの例を説明し、また写真で示している事柄ですが、以下には第11章では必ずしも説明できなかった事柄を記述します。
河川の横断方向に水平な土砂堆積その2
私が、思いがけない程に水流から離れて高い位置にある土砂堆積に気づいたのは、釣りを目的にして上流を訪れた時の事です。林道を下って水流の場所にまでたどり着く途中に、河川の流れの方向に沿って平らな地面がある事が時々ありました。林道を下って水流に至る微かなふみ跡や道無き道は当然下り坂であるのですが、途中で突然に平坦な場所が現れる事があるのです。それらの平坦な場所は広くはありませんが、流れの方向には少し広がっている事が多く、同じような太さの同じ種類の木々が幾つも成長している事もよくある事でした。もちろん、同様な地形であっても様々な種類の植物が成長している場所もあります。
この平坦な地形は何処にでもある訳では無いのですが、思いがけない場所で時々見つける地形でした。私は、この地形に出合うたびにそれがどの様にして形成されたかについてあれこれ考えを巡らしましたが、直ぐに解ける事は無かったのです。
この問題が確かに解明できたのは、先の第11章に記述した場所を訪れてからでした。第11章で説明した場所の最上段には、ほとんど松の木ばかりの林となっている土砂堆積があり、同じ場所の下部には表面が水平な土砂堆積が何段か積み重なっている状況もありました。
左 2010年8月 大井川水系寸又川 第11章で記述した土砂堆積。最上段は松の木の林になっている。
右 2015年5月 富士川水系早川 支流との合流地点。遠くて分かり難いのですが、同じような木々が茂った河岸の水平な土砂堆積。
さて、ここでこの問題を再度取り上げるのは、ただ単に土木的観点からだけでなく、植物生態学的にもそれが興味深い事柄であると考えたからです。それらの場所に同じ種類の木々が同じ太さで成長している事は、土砂堆積を生じさせた時の増水によって、それらの木々の種がその場所にもたされた可能性が大きいのではないかと考えています。
新たに形成された河川敷の土砂の表面に最初に成長を始めるのは、普通であれば、風によって運ばれてくる植物の種である可能性が大きいのではないでしょうか。これは、第11章の屈曲部の堆積土砂の表面に幾種類かの植物が成長していた事からも考えられる事です。この場合では、幾つかの種類の草々や木々がその場所に個々に成長することになり、同じ種類の植物が同じ程度に成長する事は考えにくいのです。
同じ種類の木々や植物の種が一斉に芽生えて同じように成長するためには、同じ時に一斉に種が蒔かれなけれなりません。耕作地の植物はそのようにして育成され同じ時期に収穫されています。上流部で私が見た平坦な土砂堆積の場所の木々の種類は、それぞれの場所ごとに異なっていました。それは、その土砂堆積が生じた季節に多く実っていた木々の種が流下し堆積した結果と考えても良いと思います。残念な事に、私は木々や植物に詳しくないため、それら成長した木々の種類を説明できません。申し訳ない事です。
増水時に堆積した土砂から同種類の植物が盛大に成長するさまは、中流部でも見る事が出来ます。静岡県の中央部を流れる「大井川」では、初夏の頃、広い河川敷や中州に鮮やかな薄紅色をした花を持つ「ムシトリナデシコ」の大群落を見ることがあります。それは特別大きな絨毯を河川敷に敷き詰めたように広がり、目の覚めるように鮮やかな色彩は遠くからでも容易に確かめることが出来ます。
河川の横断方向に水平な土砂堆積その3
横断方向に水平な土砂堆積を観察する時に見るべき事柄は、上記以外にもあります。それは土砂の組成に関わる事柄です。これについても第11章で写真と共に説明していますので、ここでは第11章では触れなかった事柄について記述します。
横断方向に水平な土砂堆積に層が形成されている事があります。第11章では、年月を隔てて形成された土砂堆積層がそれぞれの場所ごとに土砂堆積の組成が異なっている事と、それらの土砂堆積を一括して眺めた時には、それらは全体では層状を形成している事を示しました。この場合、土砂の一つの層は、一度の規模の大きな増水或いは土石流による大量の土砂流下を示していると考えられます。
しかし、第11章とは別の場所では、上記とは異なった状況の土砂堆積がありました。それは、流下方向に層を形成してはいるものの、その層が浅く何層も重なっている土砂堆積でした。最初その現象に気がついてのは第16章で記述している「大河内堰堤」の下流側でした。ここに写真を示しますが、それぞれの層が浅い事と層の境界が明瞭では無いこともその特徴であると考えています。
左右 いずれも、2010年1月 安倍川「大河内堰堤」の下流。これらの崖は、砂防堰堤の建設で川床が6mも低下したため、その分、より高くなりました。
この土砂堆積は、江戸時代に安倍川の源流部で発生した規模の大きな土石流や増水の跡であると考えています。
これらの様相からは、その時の土砂流下が大量であるだけでなく、短い期間の間に増水と減水が何度も繰り返された事が想像されます。そして、土砂堆積は低い場所から次第にうず高く積み上げられたのではないでしょうか。
当時、私は、海から打ち上げられる砂浜(砂礫浜)の形成について観察を続けていました。その日は、安倍川の河口とその周辺の海岸の土砂の状況について確認していたのです。と言うのも、静岡の前浜海岸では海岸の浸食が進んだ状況で、中流の河川敷に堆積した土砂を海岸に運び、施す事業を盛んに行っていたのです。
この工事を「養浜」(ようひん)と呼ぶのですが、渚に連続的に設置されたそれぞれのテトラポット群の間にある砂浜の土砂堆積が「養浜」の結果であるのか、それとも海からの土砂堆積であるのかを明確に区別する必要がある事を考えていたからです。
私が見つけた断崖状の土砂堆積は、安倍川の水流のすぐ脇にあり、土砂堆積が少し崩れて小規模な土崩れの様相をしていました。その場所は、堤防からは100mほどの距離がある一方で、波打ち際からは2〜300m程度の距離でした。その上面の表面には草々が成長して、堤防の上端からは数m程低い平坦な丘となって広がっていました。
そして、その土砂堆積よりも海側の土砂の丘は、重機やダンプが行き来した跡で、丘の斜面の元々の様相は全く不明でした。
私が驚き疑問に思ったのは、その土砂堆積の高さが2メートル以上もある事でした。この場所は、安倍川の全くの河口であり、河口両岸の堤防間の距離は約700m程もあります。ですから、仮にその堆積土砂が安倍川の増水時の水流によってもたらされたのであるならば、その時には、増水した水流の幅は700mにも及びその深さも少なくとも3m以上はあった事になります。それに対して、観察していた時の水量は、増水して濁っていましたが、3〜400m程の水流幅であり、深い場所であっても精々1〜2m程であるはずです。そして、通常時であればその量はもっとずっと少なく、渇水期には水流の幅が10mに満たない時もあります。
つまり、その土砂堆積を大増水の結果であると考えるならば、安倍川では、通常の流下水量と増水時の流下水量とで、とんでもない程の差がある事になります。安倍川では、増水時の水量と渇水時の水量とで著しい差があることを知ってはいましたが、河口においても甚だしい水位の変動がある状況を示す光景を目の前にして、ほとんど信じられない思いがしました。
でも、私のその考え方を正しいものとするためには、その土砂堆積が安倍川の増水時の水流によって形成されたものであることを確かにする必要がありました。その断面より海側や東側にはその土砂堆積に続く広い丘があり、さらに、それよりも東側には、養浜の結果と思われる土砂堆積も見る事が出来ました。つまり、私が見つけた土砂堆積は養浜の結果である可能性もあり、また、海から打ち上げられた土砂である可能性もあったのです。
このことがあってから、私は、水流により運搬されて堆積した土砂と、ダンプトラックによって運び込まれ堆積した土砂との違いを明かにする観察を続ける事になりました。
上記の疑問はやがて解決しました。上記の土砂堆積が間違いなく安倍川の水流によって運ばれた土砂であることを、他の場所の土砂堆積の様相から知ることが出来たからです。
左 2011年1月 河口両岸に残された土砂堆積。上の写真と同様に砂と砂利による層を形成した断面が見える。向こうに白く見えるのは渚で生じている波です。
右 2011年1月 前述した土砂堆積より東側に離れてあった土砂堆積の崩壊面。この場所の正面は海であり河口からは大きく離れています。この崩壊斜面には層らしき様相は見る事が出来ません。したがって、この場所の土砂は養浜のために運び込まれて堆積した土砂であると考えられました。
ここまでに示した、水平に堆積して層を形成した河川の土砂堆積の成因をここで少し考えて見ます。
11章で示した土砂堆積ではそれぞれの層の厚みは大きかったのに、この章で示した土砂堆積の層は厚くはありません。これらの土砂堆積の成因はほぼ同じであると考えられますが、その様相の違いはそれぞれの土砂堆積が生じた時の条件の違いによるのではないでしょうか。
11章で示した土砂堆積では、いちどきに大量の土砂が流下し、堆積しました。それらの土砂は、いちどきに流れ下った時の土砂の組成をそのまま残して、水流が急激に減少した時の土砂堆積の様相を表しているのでは無いでしょうか。つまり、それは、大量の土砂が水流と共に流れ下り急激に水量を減少させた、土石流の跡である可能性が大きいと考えられます。
それに対して、この章でここまでに示した、層が薄い土砂堆積の場合では、土砂堆積の上面を上回る増水が続き、その間に幾度も水量の変化が生じていた事を現わしていると考えられます。土砂堆積の層を上回る流下水量が増加した時には砂利や小石が流下していました。そして、土砂堆積の層を上回る流下水量であっても、水量が減少して来た時には水流の勢いも減少するので、流れ下っているのは砂が多かったのではないでしょうか。
大河内堰堤の下流側の土砂堆積の場合。江戸時代に発生した源流部の大規模崩壊による大量の土砂が、土石流などによっても堰堤付近にまでいちどきに流れ下る事が無く上流部に残され、その後の大小の増水の度に幾度も流れ下って来た事を現わしているのでは無いでしょうか。つまり、その間には、川床が低下する間もなく、幾度も幾度も大量の土砂が流下し続けていたと考えられます。
養浜による土砂堆積と、砂礫浜の形成
左2016年7月、風車の南側の土砂堆積。右2012年7月、さらに東側の土砂堆積。いずれも、台風の時の大波が堆積の根本まで押し寄せ堆積土砂を崩壊させた。右側の流木群は、多数の流木と一緒に波が押し寄せた事を示しています。
左 2018年6月 久能山東照宮前より西を望む。右 2018年6月 久能山東照宮前より東を望む。
左右いずれも、養浜による大量の土砂の投入により、海岸が回復しました。但し、全てが養浜の結果であるのでは無く、かなりの部分、安倍川から排出された土砂が岸辺を伝ってここまで到達したと考えられます。
左 2018年6月 東照宮前付近。土砂堆積の奥に見えるのは、国道と海岸を隔てる障壁。 右 2021年4月 東照宮前より東側。手前のコンクリートは堤防上の障壁の上端で、ここでは国道と障壁の間に少しの間隔があります。養浜の土砂は、堤防上の障壁から海に向かって大量に堆積されています。
左右の写真では、障壁間近まで大波が到達して養浜の土砂を海岸に向かって移動させたが、すべての土砂をさらう事は無かった事を現しています。
ここまでに示した土砂堆積による段丘と砂浜は、河口を写した最初の3枚の写真を除いて、全て、安倍川の河川敷から運ばれた養浜の土砂が堆積し、或いは波によって崩壊し、或いは波によって移動し、或いは浜辺に再び堆積した結果です。
上記4枚の写真の工事方法では、陸地側の障壁の前から離岸堤までの間に、安倍川の河川敷から運ばれて来た大量の土砂を敷き詰めたようです。それら大量の土砂は、通常の波や嵐の時の大きな波によって次第に海側に引き込まれ、一部は海中に一部は陸地に止まり、砂浜(砂礫浜)を形成します。この時、土砂中に含まれていた、土と呼ばれる小さな粒子の土砂のほとんどは、打ち上げ戻る波の水と共に海中に至り、再び陸地に戻される事無く海水中を漂い、やがて植物プランクトンの餌になると考えられます。また、養浜による堆積土砂の上面の土の成分も降雨によって流下移動することが多いと考えられます。
この時点で、養浜によって堆積していた土砂が、浜辺の砂や砂利に変わります。また、海中に引き込まれた土砂の内で、渚の近くに堆積した土砂は、岸辺に向かって斜めに打ち寄せる波によって、東方向に少しづつ移動します。
これらの事から、河川敷から運ばれて堆積した土砂と、海から打ち上げられた土砂とはその様相が明かに異なっています。養浜により堆積した土砂は、土の成分を含んでいるので堆積した断面が垂直の壁になることが多いようです。この事は、上面を水平にして堆積した河川敷の土砂の場合でも同じように考えられます。
そして、河川での堆積土砂の場合では層を形成することがありますが、海岸の養浜の土砂ではそれがありません。それらに対して、海から打ち上げられた土砂の場合では、垂直の断面を形成する事はありません。
私が静岡の前浜海岸全体の観察を始めたのは2010年頃からでしたが、その頃には海岸は全く回復していませんでした。しかし、2012年頃より、浜辺は、安倍川の東側から急速に回復を始めました。2014年になっても全く回復していなかった、久能山東照宮前さえも2018年にはほぼ回復の様相を見せています。東照宮前は、三保の松原まで続く海岸のほぼ中間地点です。
前浜海岸の土砂は西から東に向かって移動していますから、東照宮前の回復は、それより以西の海岸も回復している事を意味します。これらの回復の原因は安倍川からの土砂移動があったからだと考えていますが、海岸の全ての区域に施された大量の土砂も回復に大いに貢献したと考えられます。
海岸を移動する土砂は渚を移動していますから、テトラポッドがあったり、その奥に渚があったりする状況では、土砂の移動も充分で無かった可能性があります。養浜が、離岸提になっていたテトラポッド群の陸地側にも大量の土砂を堆積させたので、その不都合が大いに改善されたのでは無いでしょうか。
2021年現在も養浜工事は続行中です。海岸の回復は東照宮前より東側へと進んでいますが、以前ほどの急速な進捗状況は見る事が出来ません。2012年頃より回復を始めた前浜海岸の砂浜は、6年後の2018年には約8Km先の東照宮前まで進行したのですが、その先は2年以上経過しても1km程しか進んでいません。
不可解な土砂堆積の丘
以下では東照宮前よりほぼ1q東側の状況を説明します。最初は、2014年12月の光景です。
左 2014年12月 下の6枚の写真に該当する場所の写真です。国道からテトラポッドまで、養浜による大量の土砂が施されて堆積していますが、海岸の回復はほとんど進んでいません。
以下の写真6枚は全て2021年4月に撮影したもので、最も最近の光景を写したものです。つまり、海岸回復の最前線での養浜工事の写真です。上の写真の通り、現在の工事以前にもこの場所には大量の土砂が施されていたのですが、それらだけでは効果を得ることが出来なかったのです。
先に、養浜の具体的方法を示した写真を掲載します。
左 安倍川の河川敷から運ばれた土砂が陸地側のテトラポッド群と離岸堤になっていたテトラポッド群の間に敷き詰められます。テトラポッド群はいずれも全くの連続では無く、所々で間隙がありますが、そこにも土砂を堆積させ上面を水平に均すのが普通のようです。ダンプトラックの出入り口は一か所で、そこから順に東に向かって土砂を堆積させています。ここでは海側のテトラポッドの高さが土砂堆積の目安になっているようです。
右 運ばれて来た土砂の先端箇所で作業する重機。
以下の4枚の写真は、通行量が多い国道からの土砂の搬入口に設けられたトラックの待避所と思われますが、この場所の堆積土砂の様相は不可解です。
左 待避所の陸地側は通常の安倍川からの土砂によると思われますが、海に突き出した側の土砂の様相は明かにそれとは異なっています。
右 左側の場所を海側から撮影しました。決して少ないとは言えない土砂量です。
左 上記の海側の土砂の様子。陸地側の土砂とは明かに異なった組成です。
右 陸地側の土砂の様子。確かに、安倍川から運び込まれ堆積した土砂であると考えられます。
*上述した工事方法の写真でも、上の左側写真と同様の土砂が多く運び込まれた様相を見る事が出来ます。先端の重機が触れている箇所の土砂では、石や岩よりも土の成分がずっと多いように見えます。重機がある先端までに至る土砂堆積も同様に土の成分が多い事を思わせる色をしていると思います。
安倍川の河川敷から搬入されたとは考えにくい土砂は、安倍川からの土砂に比べて色が全く異なり、砂では無く土と呼ばれる成分が多く、また、石や岩の量が少ないと思います。
私は、河川や海岸の土砂の事を考えるようになってから、市内でのビル建設や住宅の建設の際に掘削される場所の土砂の組成について時々観察をして来ました。もちろん素人ですし、たまたま見掛けたそれらの場所を観察するだけで、現場に立ち入ることは出来ませんので限度がありますが、その結果は従来この土地で言われて来た歴史的事実を確認するものでした。
静岡市の平野部は安倍川の氾濫原が元になっていて、徳川時代初期に現在の市街地の西側に流路を変更されるまでは、幾筋にも分かれた安倍川の分流が現在の市街地の中心部を流れていたと言われます。今も残る地名や、僅かに残った小さな水流がそれらの痕を示しています。
JRの南側の事は承知していませんが、北側の市街地を掘削すると、表面の少しの土砂を取り除いた跡には、確かに土石流や大量の土砂流下の跡を思わせる多くの石や岩を見つける事が出来ます。それらの組成には茶色の土が多いのですが、それと共に砂利や小石も多くあり、人の頭の大きさの石や岩も珍しくありません。それらの石や岩は、角が取れて比較的丸まった形をしている事が多いのです。
さて、以上の事を考えると、上記した不可解な土砂は、市街地を掘削した時に発生した土砂である可能性が大きいのではないかと考えています。
安倍川からの土砂とそうでは無いと考えられる土砂とでは、養浜における効果に違いがある可能性が考えられます。養浜の土砂が海岸の砂浜や砂礫浜になる過程については前述で説明しています。ですから、安倍川からの土砂ではない場合では、より多くの土が海に拡散する事になり、河川敷からの土砂の場合よりも砂浜や砂礫浜になる可能性が減少すると言えます。
安倍川からの土砂と判断するのが困難な土砂は、2021年になって初めて発見したのではありません。2011年には、三保半島付け根の清水南高校の南側で、茶色で土が多く石や岩もある土砂が障壁の脇から大量に堆積している状況について、土地のご夫人に話を聴いた事があります。その時の話では、それらの土砂が元からあったものでは無くダンプトラックが運び込んだものである事と、お米が採れないその付近では以前は製塩によって得た塩を新潟に送り替わりにお米を得ていた事を教えて頂きました。
安倍川から運び込まれた土砂であると判断するのが困難な土砂は、その後も清水地区で度々見掛けていました。でも、海岸の回復過程とその状況の確認を最優先に考えていた私は、安部川河口以外の場所では頻繁に海岸を観察してはいませんでした。
私がこの問題を重要視するのは、上記のように、それらの土砂の効果に関する事柄だけではありません。
前浜の海岸に施されている養浜の為の土砂は国有財産であるのです。最近では見る事がほとんどありませんが、ずっと以前、私が河川での釣りを始めた頃には、各地の河川敷の所々で、「河川敷の石や岩や木々は国有財産であり、それを持ち出すことは窃盗になる」事を説明する看板をよく見かけたものです。つまり、静岡では、養浜事業のために、国有財産である安倍川河川敷の土砂を、同じく国有財産である静岡の前浜に移動させているわけです。
もう一つ重要な事は、静岡では、安倍川の源流から三保半島までの土砂の移動を連続した一連の自然現象として捉え、観察し研究しています。源流部での土砂の発生から半島の先端に至るまでの、土砂の状況を数値的にとらえ、誰にでも分かり易く説明し、より良い方策を探求することを10年以上前から継続して詳細に観察、研究しています。これは、全国に先駆けての事業であるようで、その経過については毎年報告書が提出されていて、誰にでも分かり易い文章と図表になって、WEB上に掲載されています。言い換えると、静岡の安倍川と前浜の回復事業は、国土交通省としても重要視し、全国からも注目されている事業でもあるのです。
私は、それらの文書の全てではありませんが、凡そを読み、ある程度の把握をしているつもりです。しかし、それらの文書の何処にも、海岸の養浜に安倍川河川敷以外の場所からの搬入は記述されていません。これはどうした事でしょう。
さらに重要な事があります。前浜の養浜に安倍川の河川敷からではない土砂を使用する理由は何処にも無いのです。市街地近くの安倍川には大量の土砂が堆積して、川床が上昇して治水のためには不都合な状況が発生しています。これは河川管理者や学者の皆様も認め、上述の文書にも記述されている事実です。
ですから、安倍川の河川敷から過剰な土砂を運び出して、砂や砂礫が不足している前浜の養浜に使用する事は、安倍川の治水と前浜の回復を同時に実現する為の全く理にかなった方法なのです。そして、安倍川河川敷の堆積土砂量は、現在でも年々その量を増加させ続けている状況もあります。全く、前浜養浜の土砂の実際の状況は不可解であると言うしかありません。
国土交通省が力を入れ、その資料を公開している事業において、素人が観察して不可解であると判断される事実が生じているのです。国民の財産が国の省庁によって移動しているのですから、厳重な管理が為されているはずです。何らかの事情が生じていることは考えられますが、それが全くの外部から指摘されるようでは、国土交通省の能力を危ぶむ考えさえ生じる事でしょう。
安倍川河川敷の土砂だけで賄われているはずの養浜に、他の場所から持ち込まれたと思える土砂が何故に混じっているのでしょう。それも、最近だけでなくずっと以前よりそれらの事実があった可能性もあるのです。
直接に養浜事業に係わっているのは、国土交通省静岡河川事務所、静岡県交通基盤部河川砂防局、及び民間の各土木工事業社であり、上記した研究助言の組織として、安倍川総合土砂管理計画フォローアップ委員会、及び同作業部会があります。
それらの皆さんであるなら、素人の私などよりずっと多くの情報を承知していらっしゃるはずです。それらの内のどなたでも構いませんが、私の疑念を晴らして頂ける事を望んでいます。それは、より多くの市民と県民だけでなく、安倍川の治水と前浜の養浜事業を注視している全国の皆様にも河川と海岸の行政に対する信頼をにもたらすものになると思います。
>第12章 上面が水平な土砂堆積と、海岸の養浜